2017年7月5日水曜日

広島市議会 (第5回12月定例会)1994年12月12日-03号




○副議長(神明政三君) 休憩前に引き続き会議を開き,一般質問を行います。 15番皆川恵史君。 〔15番皆川恵史君登壇〕(拍手) ◆15番(皆川恵史君) 日本共産党市会議員団を代表して一般質問を行います。

(中略)・・・

最後に,平和問題についてお伺いしたいと思います。 最近のアメリカ本国での相次ぐ原爆投下正当化発言や日本政府による侵略戦争美化発言に対して,戦争や被爆の実相を絶対に風化させてはならないという思いを,私は強くしております。被爆50周年を迎えるに当たり,私は次の三つの問題を挙げて質問いたします。 広島への原爆投下は人類だけでなく,万物絶滅に至る最初の犯罪でありました。第1の問題は,だれが何のためにこうした行為を行ったのかということであります。原爆を投下したのはアメリカです。その目的は,第1に,原爆の威力を誇示して,戦後世界の主導権を握るため。第2に,来るべき核戦争に備えるため。さらに,強固な核爆弾の開発と大量の人体実験を行うためでした。この後者の目的遂行のために,アメリカが8月末に日本に上陸して直ちにやろうとしたことは,実験対象にした被爆者を放置して観察することでありました。治療をすると実験対象としての価値はなくなるからであります。そこで,彼らはうめき苦しんでいる被爆者を放置して観察しやすくして,データを収集することを意図したのであります。当時,被爆者の治療に当たっていた陸軍病院宇品分院を閉鎖をして,マルセル・ジュノー博士が国際的な救援を要請するために国際赤十字本社に電報を打つことを妨害をしました。この電報は遂に打電をされませんでした。治療に当たっていた日本の医師や研究者から,情報交換と研究発表の場を取り上げました。 そして,9月6日には原爆投下から1カ月後に米軍のファーレル准将,この人はマンハッタン計画の副責任者であります。このファーレル准将は東京で記者会見をして,広島,長崎で死ぬべき被爆者は全部死んだ,原爆で苦しんでいる被爆者は現在一人もいない,このように発表をして,翌日から外国特派員の広島,長崎への立ち入りを禁止をしたのであります。さらに,9月19日にはプレスコードをしいて,一切の原爆報道を禁止したのであります。その年の10月にイタリアで開かれる予定であった国際医師会議の場で,日本人医師が原爆被害について報告をすることもアメリカの圧力で突然直前に開催が中止され,やみに葬られたのであります。 このようにして,この広島と長崎は国内からも国際的にも完全に隔離されてしまいました。この隔離状況のもとで何の救援の手も差し伸べられずに,9月に入っても毎日数百人ずつが,次々と息を引き取っていったのであります。アメリカが報道されるのを一番恐れていたのは,この事実。つまり,被爆後1カ月を過ぎた今も1日で100人の割合で死んでいる,こういう事実こそが原爆が国際法違反であることを最も端的に証明するからでありました。もし,当時被爆地の惨状が全世界に正しく伝わり,国際的救援が行われていたならば,恐らく数万の命が助かっていたでありましょう。真相を隠ぺいしたアメリカ政府と,それに何ら抵抗せず天皇制を存続させることだけにきゅうきゅうとしていた日本政府の放置責任が今,改めて問われるべきであります。原爆による惨状の第一報を世界に発したイギリスのバーゼット記者は,この点について広島の事実を軽視するための何らかの協定が実際に存在するものと考えない限り,このことは理解ができないと,このように述べております。同時に,日本のジャーナリズムの中で当時イギリスのこのバーゼット記者のような勇気ある行動がなぜ生まれなかったのか,私たちは歴史の教訓とすべきであります。 第2に,私が強調したいことは放射能の長期的影響が予想されたため,アメリカが広島に設置したABCCの犯罪的行為についてであります。 50年を経た今日,なお被爆者が多くを語りたがらないという,このABCCで一体何が行われたのか。ある人は「加害者への怒り」という手記でこう書いています。ある日,突然,縁なし眼鏡の二世がジープとともにやってきた。そして,血をとるだけだと言った。私は血は上げたくないと断った。すると,その二世は,あなたそんなことを言っていいのですか。軍法会議に回ってもいいのですかと,このように言った。これ以上断れば,本当に軍法会議に回されるかもしれないという恐怖心だけが残った。そして,あした一人で行くからと答えていた。ABCCは,このように嫌がる被爆者を恫喝して,無理やり施設に引っ張っていったのであります。そのほか担任の先生に言われて,病院の先生に勧められるとか,当時学校や病院などに広範な協力網が敷かれていました。市役所も戸籍や死亡調査に全面的に協力させられ,当時の社会課にはABCCの分室まで置かれていました。 ABCCに連れていかれると,まず何をされたか。当時中学生だった人は,こう語っています。レントゲンをとり,その後で壁にグラフ黒板のような目盛りが書いてある部屋で,全裸で正面と側面から全身の写真を撮られました。この屈辱的な仕打ちは,一生忘れることができません。この調査はABCCによると被爆地の被爆児の成長,発育に関する調査で,まず標準姿勢のもとで撮られた3方向の裸体写真で,その目的はA,体格の測定,外形,肥満,筋肉発育,B,性的成熟,乳房の発達,性器の大きさ,体毛の分布などを調べるためのものです。当時,晩発性の障害があらわれ始め,体力を消耗していた被爆者にとって,治療もされない上に,このような屈辱的な調査が,どんなに人間としての尊厳と生きる勇気を奪ったことでありましょう。 被爆者が死ぬと,彼らはハゲタカのようにあらわれて,遺族に解剖を迫り,火葬前の遺体を持ち出して臓器を奪いました。これらの臓器は,すべてホルマリンに入れられて本国に送られました。こうして被爆者は原爆で殺された後も,次の核戦争のために利用されたのであります。この被爆者への追跡調査は,今なお放影研となった今も続いております。 第3に,私はABCCによるこうした調査に協力加担した国立予防衛生研究所,厚生省並びに日本政府の責任は重大だと思います。トルーマン大統領の命令でABCCが設置され,広島で活動を開始したのは,昭和22年3月でした。国立予防衛生研究所が設立されたのは同年の5月,そして,このABCC内に予研の支所を設置したのは翌23年8月であります。ABCC設置からわずか1年半後に,日米の合同調査はスタートしたのであります。予研の広島・長崎支所は原子爆弾影響研究所とも称し,設立5年目で人数は約50名,大半が医師の資格を持つ厚生技官です。こうして予研は昭和50年3月まで,実に27年間にわたりABCCの目的に奉仕しました。もし,予研の協力がなかったらABCCはその反人道的目的を遂行できなかったでしょう。予研も厚生省も占領下の強制によって,仕方なく協力させられたのでしょうか。そうではなかったことが,当時の資料から浮き彫りになっています。最近発見された資料の中に,当時厚生省がこの合同調査を行うに当たって,GHQに提出した原爆障害調査計画書案には,次のような驚くべきことが書いてあります。調査の結果,来るべき平和な原子力時代だけでなく,戦時においても人類の福祉の保護に大きな貢献をすると期待される,それゆえ我々は全人類の利益のために,この問題を解決する好機を逸すべきでない。戦時においてもというのは,次の核戦争を想定していることは明らかであります。次の核戦争が行われたときのために,この好機を逃すべきではないと,このように厚生省が言っているのであります。 当時の予研の年報にも,この好機を逸すべきではないと,所長の言葉が載っております。治療援護の観点が全く欠落しているだけでなく,調査研究の実験対象としか見ていない点で,アメリカの見方と共通をしています。当時,日本政府がこの予研支所の開設に充てた予算,2年間で1億1,000万円が,もし被爆者の治療のための病院開設や医薬品の購入に充てられていたならば,どれだけ多くの命が助かっていたことでしょう。 この国立予防衛生研究所は,昭和22年5月にGHQの政令54号によって,東大伝染病研究所より分離設立された機関です。東大伝研と言えば,戦時中,陸軍軍医学校とともに「悪魔の飽食」で有名な七三一部隊などに細菌戦のための大量の研究者や病原体,化学技術情報を全力を挙げて提供していた研究所であります。当時,満州で中国人やロシア人を使って残虐な人体実験を行っていた七三一部隊の石井四郎中将以下の軍医たちは,終戦後アメリカ政府との取り引きで,その研究成果を米軍に渡すのと引きかえに,極東裁判にもかけられず,戦犯を免責されたのは有名な話であります。 私は,最近,国立公文書館にある米軍返還資料の中から,米軍が持ち帰った貴重な七三一部隊の研究成果の一部を見つけて複写をしてまいりました。これがそれです。この論文は「凍傷について」と,こういう表題で,昭和16年10月26日満州ハルピンの学会で発表された第七三一部隊陸軍医師Y・H氏の学術論文であります。戦後,ハバロフスク裁判で,この凍傷実験に立ち会った証人は,次のように証言しています。 私が監獄の実験室に立ち寄りましたとき,そこには長いすに5人の中国人の被実験者が座っていましたが,これらの中国人のうち2人には指が全く欠け,彼らの手は黒くなっていましたし,3人の手には骨が見えていました。指はあるにはありましたが,骨だけが残っていました。Y・H氏は,厳寒マイナス30度にもなる戸外に,これらマルタを連れ出し,また生まれて3カ月の赤ちゃんにも凍傷実験を行ったのであります。実に,恐ろしい話です。戦犯を免責されたこれらの軍医たちは,その後部隊で行ったことを絶対に口外しないことを誓って,全国の大学や研究所などに散っていったのですが,その後,彼らが年に1回集まる親睦会「精魂会」の名簿を見ると,副知事,大学の学長,大学教授,病院長,研究所長,研究所教授等の肩書がずらりと並んでおります。いずれも部隊で中心的役割を果たしていた人物ばかりです。この人たちが,いかに戦後,日本の医学会で影響力の大きい地位を得ているか,一目瞭然であります。 話はもとに戻りますが,米軍は七三一部隊の研究成果をひとり占めするだけでなく,東大伝研まで接収しようとしますが,これは抵抗に遭って成功しませんでした。そこで,GHQは伝研を分離して,予研を設立するのですが,その設立に当たり,七三一部隊などの軍医や研究者が相当数,予研に採用されました。判明しているだけでも,創立以来,昭和56年までの7人の所長のうちの6人,副所長も7人のうち4人,さらに微生物部,病理部,製剤検定部など,初期の各部長の大多数を占めています。この予研の設立の目的は,占領軍の公衆衛生政策への協力,伝染病予防の研究,ワクチンの検定などでしたが,別のもう一つの顔として,その前年に相模原市に設置されたアジアにおける米軍の細菌戦研究所第406部隊に協力することと,同じく2カ月前に設置されたABCCの日本側下請機関となることでした。ABCCの所長はずっとアメリカの軍人で,4代目所長のホームズ大佐は引き続き米軍406部隊長に昇任しています。アメリカにとっては,ABCCも細菌戦部隊も同系統の米軍施設であったことがわかります。 日本側について言うと,ABCCの日本側諮問委員会の委員長は,歴代予研の所長が兼ねて,所長室で再々会議を持っていたことが記録に残っております。当時,ABCCでは年に数回,ドクターを相手に記念講演が行われていましたが,その中に先ほど紹介した凍傷実験をやったY・H氏も講師として生化学の立場で記念講演を行っているのであります。ついでに触れておきますと,予研が毎年発行している予研年報というのがありますが,ここにはワクチン開発のため,当時各地で人体実験や野外実験を行ったことが誇らしげにはっきりと書かれており,戦前の人体実験に対する反省がみじんも見られず,背筋が寒くなる思いです。 以上を踏まえてお伺いしますが,第1に,ABCCも放影研も,そして予研も自分たちのやってきたことを何一つ反省しておりません。過去を明らかにせずして,どうして平和機関になり得るのか,この点で市長は市民にとって,これらの機関がどういう存在であったと思っておられるのか。 第2に,移転をめぐって揺れ動いている今こそ,放影研を米エネルギー省のひもつきでなく,日本の機関にするよう強く働きかける必要があると思いますが,いかがですか。 第3に,去る11月18日,国連総会で国際司法裁判所に核兵器の違法性についての判断を問う決議が可決されましたが,日本政府は違法性を問えば,各国間の対立を助長すると言って,これに棄権をしました。1961年からことし11月までに国連に上程された23本の核兵器不使用条約に関する決議のうち,日本は何と22本に棄権または反対を繰り返しています。これでは村山政府も,政権も含めて,被爆国の政府の資格はありません。 市長は,こうした態度に厳重に抗議すべきではないでしょうか。 第4に,この司法裁判所に意見陳述をする全国連加盟国に対して,平和連帯都市市長会議の名で,原爆は国際法違反の立場を明確にするよう要請してはいかがでしょうか。 第5に,被爆者援護法はついに国家補償の理念が明記されませんでしたが,少なくとも現行施策を改善するものであり,我が党は条件をつけて政府案にも改革案にも賛成し,引き続き国家補償の援護法に改正をさせるため奮闘するものであります。援護法に対する市長の見解と今後の取り組みについてお伺いします。 最後に,私はABCCと予研,米軍406部隊と七三一部隊について述べました。両者を結びつけるキーワードは人体実験と戦争への無反省であります。戦争は国家の行為であり,個人の責任に還元することはできません。しかし,戦争の遂行に決断を下し,残虐行為を指導した者の責任を問わずして,どうして戦争への真の反省が生まれてくるでしょうか。西ドイツやフランスが,今も戦争犯罪をあいまいにしていないのは,そのことが現在の問題に通じているからにほかなりません。戦後,広島がたどった歴史を今,光を当てることは,そのことが今の私たちにとって大切なことだからと,この思いを強くいたしております。このことを述べまして,私の質問を終わります。ありがとうございました。(拍手)


○副議長(神明政三君) 市長。 〔市長平岡 敬君登壇〕 ◎市長(平岡敬君)
まず初めに,政治の要諦は民生にありと,こういう政治理念をどう受けとめておるかと,こういうお尋ねでございます。まさしく,政治の要諦は民生の安定にあるわけでありまして,私たちが都市基盤を整備するととにも,社会的な支援を要する人々には温かい施策を展開しているのも,すべて幸せな市民生活を支えるためでございます。私たちが物事を見ていく場合に,特に社会を見ていく場合に,鳥の目と虫の目の両方で見る。つまり複眼で見なければならないということがよく言われます。今回,発表いたしましたビジョンは,新しい時代に向けて,さらなる都市の発展を図るために,都市イメージの形成をどうする,行動目標の設定,時代の潮流に対応しながら,地域課題にこたえるリーディングプロジェクトを盛り込んだ長期的かつ戦略的な都市経営型のビジョンでございます。いわば鳥の目でつくっているわけであります。 例示で御指摘がありました入院患者の負担金,あるいは市営住宅への入居,ごみ埋め立てなどの諸問題につきましては,現に日々発生する行政執行上の問題でありまして,これらの問題はそれぞれ関係法令に基づく行政手続や市議会の審議の動向,地元の多数の意向などを踏まえて対応していくべきものと,このように考えております。 次に,国際司法裁の問題で,国連での核兵器の不使用条約の決議に日本政府は棄権,反対を繰り返しておると,これでは被爆政府の資格はないので,被爆地の市長として厳重に抗議すべきではないかと,同時に平和連帯都市市長会議の名で,原爆は国際法違反である立場を明確にするよう要請してはどうかと,こういうお尋ねでございました。 国際司法裁判所における核兵器使用の違法性に関する審議についてでございますけれども,去る9月9日,広島・長崎から直接,同裁判所へ核兵器使用の違法性を訴えるために,私と長崎市長の連名で,国際司法裁判所の審議に際し,広島・長崎の体験を知っていただくために,広島・長崎の被爆者及び両市長に陳述の機会を与えてほしいと,こういう旨の書簡を同裁判所長へ提出いたしました。この書簡に対しまして,残念ながら国際司法裁判所にはそうしたことを受け入れる規定がないと,こういう返書が10月17日に私あてに届けられております。 また,この10月には世界平和連帯都市市長会議の賛同都市に対しまして,機関紙ニューズレターを通じて,核兵器の使用が国際法違反であるとする国際司法裁判所の勧告的意見が出されるよう,各都市が自国政府や国際司法裁判所に対して,それぞれの立場で積極的な取り組みを推進してほしいと呼びかけたところであります。 本市としては,今後とも同裁判所に対しまして,本市や長崎市の体験をもとに,核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を願う広島・長崎の思いを伝えるよう,その方策についていろいろ検討するとともに,あらゆる機会をとらえて国際世論の形成に努めていきたいと思っております。 また,国連での日本政府の態度に抗議したらどうかということでありますが,核拡散防止条約の改定や核兵器使用の違法性に関する問題につきましては,ことしの平和宣言でも本市の意思を明確に表明しておりまして,日本政府の考えと異なっていることは事実であります。本市としては,今後ともこうしたヒロシマの心を政府に対して粘り強く訴えて,理解を求めていきたいと,このように考えているところでございます。 その他の質問につきましては,関係局長が御答弁いたします。


◎衛生局長(上田博三君)
2点お答えいたします。 まず,ABCCが被爆者と広島市民にとってどういう存在であったかと思っているか,また放影研の日本移管を強く働きかけるべきではないかという問いでございますが,議員の指摘されたようなABCC等の行為については直接把握はしてませんが,当時は我が国が敗戦,占領,講和と続いていく特殊な歴史状況下にあったこともあり,データの収集のため,被爆者の心情に対して配慮が欠けたり,行き過ぎがあったこともあったものと思います。 ABCCについては,設立後,40年代に入りまして,昭和47年の3月の衆議院社会労働委員会決議,同年1月の広島医療関係者によるABCC再編成に関する意見及び本市議会からのABCCに関する意見書など,各方面からの要請によってABCC再編の機運は高まったところであります。そして,現在の財団法人放射線影響研究所は,昭和50年4月に日米両国政府の合意により,日本国内法に基づく公益法人として発足したものでございます。今日,放影研は被爆者の健康保持及び福祉に貢献するとともに,人類の保健の向上に寄与するという平和的目的のもとに放射線の人体に及ぼす影響等の調査研究を行っており,その研究成果は業績報告書等を通じて広く内外に公開され,世界的に高い評価を受けているところでございます。 一方,昭和24年7月のABCC研究施設の比治山への建設に当たりましては,占領下において強行されたという経緯があり,市内適地への移転が全市民的宿願であり,これまで放影研の移転の実現を要望してきたところであります。現在,放影研の移転を含めた運営問題にかかわる協議が日米両国政府間で行われているところであり,本市としては協議がよりよい方向に進展することを希望するとともに,厚生省等関係機関に対し引き続き要望を続ける考えであり,現時点では放影研の日本移管については考えておりません。 続きまして,被爆者援護法問題ということで,援護法に関してどうかという問いでございますが,被爆者援護法の制定につきましては12月9日,政府提案による「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が可決・成立したところであります。9日の本会議において市長が御答弁いたしましたように,この法律に盛り込まれている援護対策の内容を見ますと,新たに特別葬祭給付金の支給,諸手当の所得制限の撤廃等が盛り込まれた点については,被爆者の援護対策が一歩前進したものと考えています。 しかしながら,衆議院厚生委員会の地方公聴会の意見陳述にもありましたように,被爆者にとって不満を残す形となったことは,十分認識しているところでございます。 また,これまで本市が要望してきたものをすべてが盛り込まれているわけでもなく,外国人被爆者問題等も含め,課題が残ったと受けとめているところでございます。 以上でございます。

◆15番(皆川恵史君)
行き過ぎがあったというふうに衛生局長さんおっしゃってますが,どういう行き過ぎがあったというふうにとらえておられるのか。私が言ったのは,あの当時に治療がほとんどされなかったと。そのために多くの被爆者がね,命が,息を引き取っていったということを私は強調したんです。そういう点で,調査だけしかしてなかったわけであって,行き過ぎがあったとかなんとかいう問題じゃない。そういう点での認識を,どういう点で行き過ぎがあったというふうに思っておられるのか。 以上,再質問しておきます。 ◎衛生局長(上田博三君)
ABCCが被爆者と広島市民にとってどういう存在であったかということでございますので,ABCCの行為につきましては,議員の御指摘,私は直接確認はしておりませんが,もしそういうことがあったとすれば,データの収集のために行き過ぎがあったこともあったものと思っております。 以上でございます。