2017年5月10日水曜日

「原子爆弾後障害症治療指針について」厚生省公衆衛生局長通知(昭和33年8月13日)

 




原子爆弾後障害症治療指針について



(昭和三三年八月一三日)
(衛発第七二六号)
(各都道府県知事・広島・長崎市市長あて厚生省公衆衛生局長通知)




標記については、かねて検討中であったが、今回原子爆弾被爆者医療審議会の意見を聞き、これを別紙のとおり定めたので了知されるとともに、指定医療機関に対する周知方についてよろしく御配意願いたい。
なお、この指針は、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律第一一条第二項の規定に基くものではなく、この指針による治療は、あくまで同条第一項の健康保険の診療方針中に含まれるものであって、特に留意すべき事項を定めるものであるので、念のため申し添える。
おって、昭和三二年五月一四日衛発第三八五号「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律による診療方針等について」(各都道府県知事、広島・長崎市長あて、公衆衛生局長通知)は、廃止する。


別紙
原子爆弾後障害症治療指針
この指針は、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律に基き医療の給付を受けようとする者に対し適正な医療が行われるよう、原子爆弾の傷害作用に起因する負傷又は疾病(以下「原子爆弾後障害症」という。)の特徴及び患者の治療に当り考慮されるべき事項を定めたものである。


一 総説
1 原子爆弾後障害症の特徴
原子爆弾後障害症を医学的にみると、原子爆弾投下時にこうむった熱線又は爆風等による外傷の治癒異常と投下時における直接照射の放射能及び核爆発の結果生じた放射性物質に由来する放射能による影響との二者に大別することができる。
すなわち、前者は原子爆弾熱傷の瘢痕異常で代表されるものであって、一般熱傷の場合とはその治癒経過その他に相異が認められ、また、爆風による直接的又は間接的外傷にしてもその治癒の様相に一般の外傷と多少の相異の認められるものが少なくない。
後者は造血機能障害、内分泌機能障害、白内障等によって代表されるもので、被爆後一〇年以上を経た今日でもいまだに発病者をみている状態である。これらの後障害に関しては、従来幾多の臨床的及び病理学的その他の研究が重ねられた結果、その成因についても次第に明瞭となり、治療面でも改善が加えられつつあるが、今日いまだ決して十分とはいい難い。従って原子爆弾後障害症の範囲及びその適正な医療については、今後の研究を待つべきものが少くないと考えられる。
2 治療上の一般的注意
(1) 原子爆弾被爆者に関しては、いかなる疾患又は症候についても一応被爆との関係を考え、その経過及び予防について特別の考慮がはらわれなければならず、原子爆弾後障害症が直接間接に核爆発による放射能に関連するものである以上、被爆者の受けた放射能特にγ線及び中性子の量によってその影響の異なることは当然想像されるが、被爆者のうけた放射能線量を正確に算出することはもとより困難である。この点については被爆者個々の発症素因を考慮する必要もあり、また当初の被爆状況等を推測して状況を判断しなければならないが、治療を行うに当っては、特に次の諸点について考慮する必要がある。
イ 被爆距離
この場合、被爆地が爆心地からおおむね二キロメートル以内のときは高度の、二キロメートルから四キロメートルまでのときは中等度の、四キロメートルをこえるときは軽度の放射能を受けたと考えて処置してさしつかえない。
ロ 被爆後における急性症状の有無及びその状況、被爆後における脱毛、発熱、粘膜出血、その他の症状をは握することにより、その当時どの程度放射能の影響を受けていたか判断することのできる場合がある。
(2) 原子爆弾後障害症として比較的明瞭なものは、瘢痕治癒異常、造血機能障害、内分泌機能障害、白内障等であるが、この外、肝機能障害、各種腫瘍等種々の続発症の生ずる可能性も考慮しなければならない。
(3) 原子爆弾後障害症においては、その症状が一進一退することが多いので、治療を加えた結果一応軽快をみても、その後における健康状態には絶えず注意を払う必要がある。
(4) 原子爆弾被爆者の中には、自身の健康に関し絶えず不安を抱き神経症状を現わすものも少くないので、心理的面をも加味して治療を行う必要がある場合もある。
(5) 原子爆弾後障害症については、全身的な補強が、肉体的にはもちろん精神的にも好影響をもたらす場合が少くない。
特に全身衰弱の認められるものには、量的及び質的に十分な栄養の補給、強壮剤の投与を行うとともに、各種のストレスに対する予備能力の低下傾向に注意する必要がある。


二 各論
1 造血機能障害の治療
原子爆弾後障害症のうちで最も変化が著しく、発現率の高いのは、造血機能障害である。
これには、放射能の照射によってひき起こされた障害が遅れて現われる後発症状と傷害の後遺症ともいうべき症状との二種類がある。すなわち、後年における白血病の発生等は前者に属し、また、常に幾分の貧血や白血球減少が認められ、必要な場合に白血球の調節が十分でないというような例は障害を受けた機能の回復が不十分なものであって後者に属する。ただし、実際にはこの両者を厳密に分けることの困難な場合が多く、また一見順調に機能が維持されているかにみえるものでも、将来突然変調をきたす場合もあるので注意する必要がある。原子爆弾後障害症としての造血機能障害が一般の造血機能障害とその発生機序がどのように異なるかについては、必ずしも明瞭でなく、従ってその治療に際しては一応既知の造血機能障害に準じて取り扱うこととなる。
また、造血機能障害が放射能によるものか否かの鑑別診断がかなり困難な場合が多いので、被爆者について他の原因が認められない場合には、一応被爆の影響を除外し得ないものとして治療を行う必要がある。

(1) 貧血の治療
イ 造血剤によって回復を期待し得る貧血
(イ) 小血球性低色素性貧血
これらは一般に鉄不足の状態にあり、また骨髄中にも細胞の増殖を認められるものが少なくないが、鉄剤の使用により回復させ得る場合が多い。ただし、出血、寄生虫症等他の原因を十分考慮して除外する必要がある。
(ロ) 大血球性高色素性貧血の一部
これはやはり骨髄中に細胞の増殖がみられる場合であって、一般には肝製剤、ビタミンB12、葉酸等が有効である。
ロ 造血剤のみの使用によっては回復の不可能な貧血
正常血球性(正常色素性)貧血、大血球性(高色素性)貧血の一部等は一般に骨髄が再生不良性の状態を示すが、なかにはむしろ細胞数の多くみられるものもあり、この所見は細胞の成熟障害あるいは部位的な細胞増殖と考えられるもので、これに対しては各種造血剤の使用、輸血、摘脾等の治療が有効な場合がある。
しかし、この種の貧血で高度の場合には、再生不良性貧血に準じて取扱うことが必要である。
また輸血は原則的に造血剤の使用後その経過をみて行うが、貧血が高度の場合には必要に応じて行う。
(2) 多血の治療
軽度の赤血球増多には、特殊の治療を要しないが、高度のものは一般の多血症に準じて治療を行う。
(3) 白血球減少(顆粒球減少)の治療
一般に骨髄に著変を認めない軽度の白血球減少は他に特別の所見のない限り、対症療法を用いるに止める。
また、白血球減少の高度のもの又は他の病状を伴うものにあっては、一般の白血球減少症に準じて治療を行う。
(4) 白血球増多の治療
放射能以外の原因を十分考慮したうえ、白血球増多の高度なものについては白血病への移行を検討する必要がある。
(5) 再生不良性貧血の治療
再生不良性貧血には次の治療を行う。
イ 多種造血剤の使用
ロ 輸血
ハ 必要に応じて摘脾
ニ 非特異性蛋白剤、ホルモン剤、ビタミン剤の使用
ホ 抗生物質の投与
ヘ その他必要に応じた治療
(6) 顆粒球減少症の治療
顆粒球減少症には次の治療を行う。
イ 各種白血球増多性製剤(核酸物質を含む)及び造血臓器製剤の使用
ロ 輸血
ハ 摘脾(脾の抑制作用が考えられる場合)
ニ 非特異性蛋白剤、ホルモン剤、ビタミン剤の使用
ホ 抗生物質の投与
(7) 出血性素質の治療
出血性素質には次の治療を行う。
イ 各種造血剤の投与
ロ ビタミンD、K、C剤、カルシウム剤の使用
ハ 輸血
ニ 摘脾
ホ ACTH、コーチゾン等のホルモン剤の使用
ヘ その他必要に応じた治療
(8) 白血病の治療
白血病には次の治療を行う。
イ 輸血
ロ 各種白血球減少性製剤(抗白血病製剤)の投与
ハ 放射性燐の使用
ニ ACTH、コーチゾン等ホルモン剤の使用
ホ 抗生物質の投与
ヘ その他必要に応じた治療
(9) 造血機能障害の治療に関する注意
イ 貧血、白血球減少症、血小板減少症はしばしば併存していわゆる汎骨髄瘻の形をとる。従ってその治療も全般的に行う必要のある場合が多い。
ロ 造血機能障害の場合にも一般栄養状態及び合併症に対する治療を必要とする。


2 内分泌腺機能障害の治療
原子爆弾後障害症としてみられる内分泌腺機能障害は主として副腎皮質機能障害、性腺機能障害、甲状腺機能障害であるが、これらは特に放射能に基くか否かの判断が困難な場合が多いので、可能な限り他の原因を排除し、原因の明瞭でないものは被爆による影響の可能性を考慮して治療を行わざるを得ない。
その治療法は一般の副腎皮質機能低下及び性腺機能障害の治療に準ずる。ただし、内分泌機能障害が造血機能障害等と共存する場合が多いので、この場合は両者の治療を同時に行う必要がある。
3 肝機能障害の治療
放射能が肝機能に及ぼす影響についてはいまだ明瞭でない点が多いが、原子爆弾後障害症として肝機能障害を生ずることがあると一般に考えられている。
この場合には一般の肝機能障害に準じて治療を行う。
4 熱傷瘢痕異常の治療
原子爆弾熱傷部の瘢痕は、種々の異常状態を呈して今日に至っているが、それに対する治療方針の検討に際しては、まず、原子爆弾熱傷の特殊性を考慮し、次いで、それら瘢痕の性状、経過及び現状を観察して対策を講ずべきである。しかし、事件発生後一〇年余の経過した今日、それらの瘢痕異常は、すでに固定期に入るものと考えられるので、今後に於ける実地上の治療方針については、大体において、他の原因で発生した熱傷瘢痕の異常と同様の線に沿って検討してもさしつかえない。
原子爆弾熱傷の瘢痕異常で、今日において治療を必要とするものは、瘢痕肥厚、均縮等に基く醜形ないし機能障害であり、治療術式としては、瘢痕の除去、植皮による形成等を主体とする外科的方法であるべきであろうが、原子爆弾熱傷の特殊性に基いて、それ等の異常な治療が極めて困難であり、種々努力を重ねても十分に満足すべき成績を挙げにくいことがある。従って、これらの瘢痕異常の治療にあたっては、適応の選択を厳正にしなければならない。特に、美容のみを目的とする治療に際しては、一層慎重に適応の選択に当ることが必要である。
原子爆弾熱傷の瘢痕異常に対する外科的形成治療法の実施に際して、一般的に注意を要することは、次の諸点である。

(1) 肥厚ないしケロイド化瘢痕の除去は完全に行うことを原則とすべきである。特に機能障害の治療にあたっては、部分的な切除だけでは、永続的効果をもたらし得ないことが多い。
(2) 皮膚の移植は自家皮膚移植法が原則とし、十分に余裕をもった移植片を用うべきである。遊離切断皮膚片の外、必要に応じては、有茎性、特に管状有茎移植法或いは埋没移植法等の応用されることが望ましい。植皮術における移植皮膚片、特にその厚さの選択については、被覆すべき欠損部の大きさ、深さ、移植床の状況等に従って、慎重に考慮しなければならない。例えば同じくシュールシュ氏法による皮膚片であっても、少し大形のものを用いる場合には、やや厚めのもの(デルマトームがあれば適宜に加減が出来る)を用いると、種々の点で都合がよい。
(3) 高度畸形の外科的矯正術に際しては、深部組織としての腱筋膜、筋肉、骨等の変状は勿論のこと、特に血管及び神経の収縮固定状態に注意し、慎重周到な対策をもって臨まなければならない。そうでないと、機能の改善が得られないばかりでなく、その部の循環障害ないし壊疽を来たして、かえって目的に反することがある。
(4) 美容的治療法としての意味が多い施術に際しては、一般に漸進的方策のとられることが望ましい。そして皮下の瘢痕組織等を形成部下敷用として利用すること等の注意が必要である。特に発育期にある小児においては、これらの注意が必要である。
(5) 今日においても、形成治療の後に、まれには、皮膚縫合部瘢痕が軽度ながら肥厚ないしケロイド化の傾向を示すことがあるが、これを、原子爆弾障害の影響によるケロイド素質が残っているものと考える前に、形成治療法の手技に欠けるところがないかを反省してみることが必要である。
従って美容を主目的とする治療に際しては、残存皮膚縁部の取扱いは特に庇護的にし、縫合針並びに縫合絲等もなるべく細小のものを用いるべきである。
なお身体のいずれの部分を問わず、熱傷瘢痕の部に難治の潰瘍を残し、あるいは時々潰瘍形成を繰り返す場合には、必ず、適宜植皮法によって被覆治癒させなければならない。潰瘍形成に至らないまでも、瘢痕部に時々皹裂を発生するような場合も、前項に準じて処理すべきである。これらの注意は、いうまでもなく、皮膚癌発生の危険を未然に防止しようとするためのものである。

5 眼障害の治療
眼科領域における原子爆弾後障害のうち、治療を要するものは、主として直接の眼外傷による後遺症と放射能性白内障とであるが、その他、眼機能の異常等も、稀には、存在することがある。以上の場合の治療法は、次に掲げるもの以外は、一般の治療法に準じて、適宜行うものとする。

(1) 眼外傷による後遺症の治療
原子爆弾による眼外傷は、主として熱線による火傷と爆風のため飛来した異物による損傷であるが、これらは何れも前述の熱傷瘢痕異常の治療を参考の上、一般眼外傷の後遺症に準じて治療を行う。
(2) 放射性白内障の治療
原子爆弾による白内障は、被爆時瞬間的に放射されたγ線及び中性子によって生じた放射能性白内障であって従来知られているX線又はラジウムによる放射能性白内障に類似している。
放射能性白内障に水晶体の溷濁が進めば他の原因による白内障と区別することが困難であるが、原子爆弾後障害症としての放射能性白内障は、おおむね、爆心地から比較的近距離で被爆した者に現われるので、特に他の原因の明らかなものを除き、近距離で被爆したものの白内障は、放射能性白内障として処理せざるを得ないことが多い。
原子爆弾後障害症としての白内障の治療はおおむね一般の白内障の治療に準じて行う。